常陸太田市郷土資料館  
 
 

梅津福次郎と梅津会館

 

梅津福次郎

 
  梅津福次郎    
 
 梅津福次郎は安政5年(1858)2月、久慈郡太田村下井戸(常陸太田市)に生まれた。少年時代、久慈郡誉田村(同市)の菊池醤油油屋に永い間奉公していた。
 少年のころから商才にたけ、負けじ魂が人一倍強く、道を歩くにも、友だちより一歩でも二歩でも先んじなければ気がすまなかった。洋々たる前途を夢みる梅津青年にとっては、生まれ故郷の太田は、余りにも狭く、小さかった。
 明治13年(1880)当時、北海道に根室港が新しく開かれ、活気にみちた朗報が伝えられた。
 「太田あたりでぐずぐずしていたって、仕方がない。体の続く限り頑張ってみよう」と心に固く誓い、僅かな旅費を懐に、太田を後にして、希望の新天地、北海道へと旅立った。明治13年9月、福次郎23歳のときであった。横浜港を出帆して間もなく、風にあい、疲労困憊、海上三昼夜を費して函館の旧桟橋に着いた。
 何日ぶりかで昼食をとった福次郎は、その昼食代の高いのに驚いたが、「この高値は町に活気が溢れている証拠だ。これは前途有望だぞ」と膝を打った。「根室と思ったが、わが大業をなす所はこの函館だ」と函館を永住の地と決めた。連日貸家を探し廻るうちに、偶然にも太田村出身の政吉という人力車夫と出会い、その家の世話になり、納豆売りを始めた。その後、天秤棒をかついで塩引きの鮭を売り歩いた。これが函館での独立営業の始めであった。やがて函館市内の地理にも明るくなり、近郊の事情にも通じてきた。朝暗いうちに起きて、問屋からは現金で品の良いものを安く仕入れ、近郊まで足を伸ばし、売り尽くすと農家から新鮮な野菜を仕入れて、帰りにこれを商い、市民から喜ばれた。一日に人の二日分も三日分も働いた。自宅では夫人が食料品や雑貨類を販売した。
 ある日のこと、海岸の町は烈しい暴風雨に襲われた。その嵐の中を平然と早朝から行商に出て、平日以上の売行きがあったという。
 「人には容易に真似の出来ないことをして、体の続く限り、精魂を傾けて、働けるだけ働く」ということが、70年間一貫した彼の信条であった。
 涙ぐましい奮闘と夫人の内助の功により店は次第に栄え、店舗拡張を思い立った。彼の商売のコツは「場所へ目をつける」ことであった。「あんな大きな店を借りて、梅津という男は正気なのか」と人々の嘲笑をかった。それから数日後、函館銀座末広町の角店に、「梅津商店」の大看板が掲げられた。明治23年(1890)33歳のときであった。彼の計画は図に当った。努力勤勉家で取引上に間違いがないとなると、問屋筋から信用され、得意先はどんどん増えた。販路は拡張され怱ち北海道全域に亘り、樺太(サハリン)に千島方面にと発展していった。
 福次郎には四分の一主義と称する処世訓がある。純益を四つに分けて、その一つは資本、即ち商店部に繰り入れ、一つは不動産の資金に、一つは有価証券に、残りの四分の一を家の生活費に入れるという堅実は分配方法であった。
 火事は函館の名物といわれるほど大火が多かった。明治40年、大正10年、昭和9年の三度の大火で裸一貫になった。しかし災厄に遭っても不断の用意があり、次善の策を考え、直ちに実行に移した。大火が鎮まると、すぐにバラックの貸家を作り、羅災した得意先に食料品を供給した。焼野原の中に立っても独自の才腕を振るい、得意先は増加の一途をたどった。このようにして、福次郎は時代を達観し、天賦の商才をもって刻苦勉励し、巨万の財を築いた。
 福次郎は常に郷土への報恩感謝を忘れず、多額の浄財を寄附した。太田町役場(梅津会館)、久昌寺、太田高等女学校(県立太田第二高等学校)、西山修養道場(県立西山研修所)などに、大正末期から昭和初期にかけて浄財を喜捨し、幾多の事業を援助した。
 昭和11年(1936)6月、梅津会館(旧市庁舎)前に、その徳を顕彰するために胸像が建てられた。昭和17年6月23日、85歳の崇高な生涯を閉じた。
 

梅津会館

 
梅津会館  梅津会館は、昭和11年に当時の太田町役場として建築された。外観はタイル貼りで、南東角に角塔を持ち、正面に大アーチの車寄を張出した本格的な庁舎建築である。
 小林工営所長小林豊次氏に依頼して設計を作り、県土木課渡邊技師が役場側の建築顧問として監督に当たり、小林工営所員の森田榮一氏、小菅清兩氏が工事を監督し、建築を請負ったのは常陸太田市出身の山口子之松氏である。
 昭和10年4月11日に起工し、昭和11年1月6日棟上式、同年6月に竣工した。

 平成11年8月23日に国の登録有形文化財に登録された。

 

梅津翁年譜

 
 
安政5年2月4日(1858)   茨城県久慈郡太田町に生る。
明治13年9月(1880)   青雲の志を抱いて函館に渡る。翁23歳
明治14年(1881)   函館に於て塩引の行商を始む。是れ独立営業の最初である。
明治16年(1883)   函館区西川町に小店舗を借入れ食料品雑貨類を商ふ。
明治18年(1885)   商売換して酒小売を始む。
明治21年(1888)   函館の大火に遭い丸焼けとなる。翁31歳。
明治23年(1890)   函館の一等地末広町の十字街に大店舗を借入れ、函館区民を驚かす。
明治35年(1902)   酒問屋組合を組織す。翁45歳。
明治40年(1907)   大火に遭い丸焼けとなる。翁50歳。
明治43年(1910)   函館商業会議員となる。翁53歳。
明治44年(1911)   函館区会議員に選ばる。翁54歳。
大正2年3月(1913)   内助の功厚かりし夫人八重子氏逝去す。翁56歳。
同年10月20日(1913)   大日本ビール会社重役植村澄三郎氏の媒酌にてタケコ夫人を迎ふ。
大正10年(1921)   三度目の大火に遭ひ丸焼となる。翁64歳。
大正12年(1923)   東京日宗大学、太田町小学校へ各壱千円、久昌寺へ五百円、其他同仁会、太田町若宮八幡宮等に寄附す。翁66歳。
大正14年(1925)   済生会へ壱千円、函館盲唖院へ二百円寄附す。翁68歳。
大正15年(1926)   茨城県育才会へ五百円、掖済会へ二百円其他軍人後援会、明治神宮講、東京自由学園等に寄附す。翁69歳。
昭和2年(1927)   ラジオ協会へ二百円寄附。翁70歳。
昭和3年(1928)   函館市1乗山實行寺へ金壱万円寄附。翁71歳。
昭和4年(1929)   茨城県立太田高等女学校建築費の内へ金壱万円、太田町久昌寺へ六万五千円、函館高等水産学校へ五万円、身延山久遠寺へ壱千円、太田町若宮八幡宮へ百円各寄附。翁72歳。
昭和5年(1930)   實行寺法務所へ二百円、京都村雲会館へ百円寄附。翁73歳。
昭和6年(1931)   北海道武徳殿へ五百円寄附。翁74歳。
昭和7年(1932)   身延山久遠寺へ四百五十八円二十銭寄附。翁75歳。
昭和8年(1933)   満州事変記念のため防空高射砲六門其他を寄附。此金額壱万円。三陸海嘯へ百円、函館軍人遺家族後援会及び愛国婦人会函館支部総会へ各五百円、茨城県久慈郡誉田村馬場八幡宮へ百円寄附。翁76歳。
昭和9年(1934)   四度目の大火ひ遭い丸焼けとなる。
同年(1934)   茨城県太田町役場建設費として金三万五千円を、金三千円を太田町若宮八幡宮に、五百円を茨城県久慈郡久慈町小学校建設費に寄附。
昭和10年(1935)   前年大火後工を起し、現在の店舗を建築す。翁78歳。
同年(1935)   函館八幡宮及び帝国水難救済会函館支部へ各三百円、茨城県済生会基本金として二百円、東京香蘭女学校、函館市明治天皇御上陸記念碑へ各百円寄附。
昭和11年(1936)   函館連隊区司令部へ二百円寄附。翁79歳。
同年6月(1936)   翁が寄附にかかる太田町役場竣工し、新庁舎前に森山朝光氏作の寿像建つ。
 
 
 
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